街並みは綺麗になりながらも、どこかで見覚えのある道を車で走らせていると、宮城県石巻市にある牡鹿半島の付け根、万石浦の入り江に面した造船所が見えてくる

佐藤造船所。ここに来るのは3回目だ。最初に来たのは2011年5月。東日本大震災から2ヶ月が経った頃、日本財団の学生ボランティアに参加した。4月の第一陣に続く2回目の参加で、防衛大の学生も交えた男性だけの屈強なメンバーだった。バスを降りると途中から駆け足で現場に向かった。泥をかき出し、実際に船を動かした。




くたくたになって帰る前、社長の佐藤文彦さんが話してくれた言葉が頭から離れなかった。津波によって街は壊れ、泥が砂となって風に舞っていた。重機や消防ヘリが飛び交う音の中で、文彦さんの言葉はまるで荒波の中を進む船長のようだった。静かに、しかし力強く、前に進んでいくと言った。支援しに来たはずの僕たちが、逆に元気をもらってしまうような、不思議な感覚だった。
あれから15年。当時のメンバーが再び集まって石巻を訪ねた。それぞれの人生を歩んできた仲間が、今度は子どもも連れてこの地に戻ってきた。今回の再訪にあたり窓口としてやり取りを重ねてくださったのは、文彦さんの妹の友美さんだ。造船所の門へ着くと、文彦さんと友美さんの二人が温かい笑顔で僕たちを出迎えてくれた。
文彦さんは、力強く頼もしい佇まいの中に、どこかホッとさせるような優しさを湛えていた。海の猛威を知り尽くした職人ならではの芯の強さと、あの頃と変わらない真っ直ぐな目が、15年という歳月を瞬時に引き戻してくれる。
僕たちがここで出会ってからの15年という歳月も、この場所が重ねてきた長い歴史の地続きにある。今年、2026年8月31日に佐藤造船所は創業100周年を迎えるそうだ。

大海原で、船は唯一の生命線だ
佐藤造船所は昭和元年、船大工であった佐藤文作さんが創業した。以来3代にわたり、石巻の沿岸漁業を下支えしてきた。木造船からFRP(繊維強化プラスチック)船へと時代に合わせて形を変えながらも、初代から受け継ぐ「船を造る心」だけは変えなかったという。
3代目の文彦さんには、若い頃に海で得た原体験がある。高校時代に漁船に乗り、インド洋でマグロ漁を経験した。自分の目線より遥かに高い大波の中で、鉄の船が「ビョーン」とたわみ、振動する。どこまでも続く大海原の真ん中で、もし船が沈んだら終わりだ。頼れるものは何もない。船だけが、自分の命を守る唯一の存在だった。
その凄みと恐怖を、体で知っている人間が作る船は違う。
「船の大小に関わらず、海のど真ん中で、何もない中を進む船を造るということは、お客様の命を預かり、守るということです。そういう心構えで仕事をやらないといけない」
船の文化は、海と生きることを選んだ人間の、ごく自然な営みから生まれた。その文化を背負い、単に立派な船を作るだけでなく、「船を通じて自然環境からのメッセージを知る」という在り方そのものを追求し続けている。それが佐藤造船所の、100年変わらぬ仕事の哲学だ。
端くれではあるが、海洋学部出身の僕には、その言葉がすんなりと腑に落ちた。海に出る時、船は移動手段じゃない。自分の命を乗せる器だ。それは小さなカヤックでも、漁船でも変わらない。

石積みが、先代の教えを映すバロメーターになる
「ぜひみなさんに案内したいところがあります。」と文彦さんが歩き出した。
造船所の横の磯だ。佐藤造船所は、石巻専修大学が取り組むベントス(海や川など水底に生息する生き物)の基礎研究に対して協力しており、ここは自然の循環を知るための大切なフィールドになっている。 もともとは文彦さんたちが子どもの頃から遊び場にしていた場所だ。
「100年の中で身近な自然環境が悪化し、さらに震災で海辺で遊べる環境も減ってしまった。自分たちを形成してくれた幼い頃の自然体験を、未来の子どもたちへ受け継ぎたい」その想いが、この場を守る原動力になっている。

文彦さんたちが子どもの頃は、手元を曲げた40〜50センチほどの針金を自分で加工して使っていたという。岩壁などにしがみつくイシガニの動く方向を一瞬で見極め、素早く針金にハサミをひっかけてバケツへと放り込む。タモ網を使わないためカニの足がもげることも少ない、身近な道具で作る生活の知恵だ。


Photo©Tomomi Sato
殻が硬いからイシガニ。当時は捕まえたカニをおやつ代わりに食べていたそうだ。大人になった今も、竹竿の先に針金を括りつけた特製の道具を手に、子どもたちへその技を伝えている。一緒に来た子どもが大喜びで磯を歩き回っていた。こういう場所は、説明を聞くより先に体が反応する。


さらに文彦さんは、小さな岬を越えた先の砂浜へとメンバーを連れていってくれた。砂浜では、スナガニ捕りが始まった。砂の中に空いた少し大きめの穴を見つけ、乾いた白い砂を流し込んで目印にし、穴の底へ向かって崩れないように掘り進める——子どもの頃から身につけた技法で、文彦さんはすばしっこいスナガニを素手で捕まえていた。子どもはもちろん、大人たちも時間を忘れた。気がついたら、みんな童心に返っていた。




島旅や磯遊びで何度も思ってきたことだが、その土地の人の「遊び方」を見せてもらう瞬間が、一番その場所の本質を教えてくれる。
造船所の前には、石積みがある。造られてから11年近く経つという。よく見ると、そこに小さな生態系が成り立っていた。ベントスが育ち、イシガニのような甲殻類が育ち、さらにそれを食べる生き物が寄ってくる。見事な食物連鎖の循環だ。


震災によって地形が変わり、船を引き上げるための海底レールは引けなくなった。今は桟橋を浮かべ、クレーン式に移行している。佐藤造船所はどれだけ費用がかかっても、自前で伝統的な石積みにこだわった。
「先代から受け継いでいる場づくりの教えを確認できるバロメーターでもあるんです」と文彦さんは言った。
ただ船を作り、直すだけでなく、その仕事を通じて人として成長していく。自然とともに生きることを、祖父の代から教わってきた。石積みはその証だ。「自分の足元を知る、地元を知るきっかけになれればと思っています」——その言葉は、船作りへの想いとまったく同じ根っこから来ていると感じた。

津波が悪いわけじゃない
津波を経験して、海への想いは変わりましたか——そう聞いてみた。
津波が街を襲ったあと、雪が降り凍死してゆく人を見た。悲惨な光景を目の当たりにして、一時期は感情も感覚も消えてしまった。今でも当時のことを思い出せないことがある。涙することも何度もあった。
でも文彦さんはこう言った。
「津波が悪いとは思っていない、不幸とも思っていない。私たちは自然の中にいるのだから。海にはいろんな表情がある。自然の営みの中に身を置いているんだから、それは仕方ない。自然を押さえつけようとするのではなく、かわす。謙虚な姿勢でいること、それが大切だと思っています」
インド洋の大波の前で感じた恐怖も、津波という自然の猛威も、文彦さんの中では同じ文脈にある。海は人間の都合に合わせてくれない。だからこそ、力で押さえつけるのではなく、かわす。コンクリートで固めるのではなく石積みにこだわったのも、その思想から来ている。自然に対して誠実に、丁寧に向き合う。それが先代から受け継いだ、この造船所の背骨なのだと思った。
スキンダイビングで海に潜っていると、流れに逆らうと体力を消耗するだけだと分かる。流れを読んで、かわして、時にはその力を借りる。文彦さんが言っていることは、海で生きる人間の根本的な知恵だと思った。
「今できることをやって、新たな出会いがあると信じて、希望だけは失わない」
その言葉が15年前から変わっていないことが、なんとなく嬉しかった。

bo-to-da-baSe——その哲学を、みんなの場所へ
現在の佐藤造船所の取り組みについて、妹の友美さんが話してくれた。
命を預かる船作り、先代から続く自然との共生——その想いをもっと多くの人と分かち合いたいと、佐藤造船所は「船文化創造企業」として新たな一歩を踏み出している。その拠点のニックネームが「bo-to-da-baSe(ボート・ダ・ベース)」だ。

これまで佐藤造船所は、漁師という最も海に近い人たちと繋がってきた。これからは漁業者だけでなく、もっと多くの人たちと繋がっていきたいと友美さんは言う。佐藤造船所を起点に、さまざまなテーマで人と人が出会い、輪が広がっていく。名前にはその想いが込められている。
Bring out → 互いの良さを引き出し合う
To → 地域の宝物を次の世代へ渡す
Da → 起点となる
BaSe → 心地よい拠り所にする
-(ハイフン) → 仲間の想いをつなぐ
佐藤造船所が考える「船文化」とはなにか。船を通じて笑顔で自然と繋がるきっかけを創ること。「楽しい」をキーワードに、訪れた人それぞれが感じ、考え、動けること。
みんなが「楽しく・優しく・良くなる」——みんなとは、人と自然と未来のこと。
船文化を通して、自然と人とのつながりを大切にし、楽しく夢を持って生きる「小さな架け橋」になりたいと友美さんは言う。
その言葉通り、佐藤造船所の敷地そのものが場づくりの舞台だ。犬小屋や板塀をリサイクルしたレイズドベッドや枕木の畑で野菜を育て、循環型コミュニティガーデンを目指す。生ゴミはコンポストへ、堆肥は畑へと循環する。海ではシーカヤックを漕ぎ、磯や桟橋では学生や子どもたちと海洋生物を観察する。



Photo©Tomomi Sato
ボートを一緒に作り、地元の食材でしじみ汁やおにぎり、釣った魚やカニ、夏には熱中症予防の梅味噌を使ったそうめんなどを味わいながら囲む。育てる、食べる、活かす、続ける、繋がる——自然と、人と、海と、船が全部つながっていく。
以前、北欧発祥の伝統的な「クリンカーボート」を題材にしたイベントを開催したことがあると、友美さんが教えてくれた。クリンカーボートは、一隻造ることで船造りの構造や技術の基礎を学べることから、いわば造船の世界へ入門のような船なのだそうだ。
当初は倉庫に眠っていた骨組みを活用する予定だったが、経年による歪みが見つかった。一番の要となる部分をごまかすわけにはいかない。完全な完成までには至らなかったものの、「本物の道具や工程に触れてもらう」体験へとシフトした。外板張りやリベット留め体験といった手作業を通して、参加者にものづくりの楽しさと造船の世界の深さを感じてもらう時間になったという。


Photo©Hirokazu Abe
最初は2〜3人集まればと思っていたこのイベントも、一番多い時には27人がモニターとして参加したという。実験的に始めた試みが、少しずつ広がっている。

Photo©Shota Ito
「いつかはあのクリンカーボートも、最後まで完成させたいと思っています」と友美さんは言う。
毎年3月11日には花火も上がる。さまざまなイベントを通し、ここで皆と優しい時間を過ごしていきたい——それが友美さんの願いだ。

お椀一杯から始まる、ローリングストック
bo-to-da-baSeのイベントで振る舞われた一杯があるという。地元食材を活用したローリングストックだ。これは友美さん自身の被災された経験から生まれた取り組みだ。
石巻の白だし、とろろ昆布、鰹節にお湯を注いだだけのお椀。シンプルだけど、これがしみじみと美味しい。イベントではそれにおもちや地元のお塩と海苔で握ったおにぎりを加えている。



Photo©Tomomi Sato
友美さん自身も被災者だ。震災当時は仙台にいた。連絡手段がなく、天涯孤独になった感覚だったという。兄・文彦さんからの安否の知らせは「大丈夫」の一言だけ。心配させまいと家族を気遣い出てきた言葉だという。その後1週間、連絡が取れなくなった。自分の家の変わり果てた姿を知ったのはテレビ越しだった。工場に穴が空き、船が納屋に刺さっていた。


1ヶ月半後、ようやく石巻に来られた。道中ではガソリンスタンドに家が入り込んでいた。馴染みのある景色は消えていた。
そういう状況の中で、あるものだけで作った食事を口にしたとき、ホッとした。その経験がある。一方でアルファ米、チョコ、レトルトカレーなど添加物の多いものばかりで体を壊した人も多かったという。栄養状態が悪ければ、ちゃんと考えることもできない。
「普段食べなれない非常食よりも、普段から簡単にできてほっとできるものを食べて、まず心を落ち着かせることが大切。そうすれば冷静になれると思っています」
地元食材は日常から馴染みがあるぶん保存しやすく、栄養価も高い。普段から口にしているものなら、いざという時にも自然と体が受け入れてくれる。そういう食材を備えておくことが、ローリングストックの本質なのだと友美さんは言いたいのだと思う。
友美さんたちは、いろいろな場面でさりげない手土産として、鰹節と昆布をお渡ししているという。人里離れた野営でも、一番ほっとするのは凝った料理じゃなくて、馴染みのあるシンプルな一杯だったりする。どんな状況でも、腹が温まれば人は落ち着く。それは山でも、被災地でも変わらない。
共に今を生きている
帰り際、文彦さんがこんな言葉を残してくれた。
「本当に歳は関係ないです。その時の自分が生きている日に、どれだけの方と心を通わせて、その時を一生懸命やったか。それが心に刻まれて、励まされるわけです。業種も、年の差も関係ない。共に今を生きている。ここで生涯を通じて役に立ち、次の時代へ繋いでいきたい」
海の恐怖を体で知り、先代の教えを石積みに込め、津波を自然の表情として受け入れ、その哲学をbo-to-da-baSeという場所で体現しようとしている。話を聞きながら、それが全部一本の線でつながっていることに気がついた。
後から知ったことがある。あの2011年5月、活動を終えたメンバーが佐藤造船所の前で撮った集合写真が、GReeeeN(現GRe4N BOYZ)の「Green boys」のミュージックビデオに使われていた。メンバーの一人が全国からの写真募集に応募したところ、見事に採用されたのだ。「Green boys」は東日本大震災を目の当たりにした彼らが、復興への想いを込めて届けた曲だ。
文彦さんは今日までそのことを知らなかった。でも、前に進んでいくという言葉は、あの歌詞と同じ場所から来ていたのだと思う。知らないまま、同じ方向を向いていた。
今回の訪問の最後に、15年前と同じ場所で、同じ構図で写真を撮った。あの頃より少し顔に刻まれたものはあるけれど、笑顔は変わらなかった。
かつての若者たちが、それぞれの場所でそれぞれの人生を歩んでいる。子どもを連れて戻ってきた仲間もいた。
昭和元年創業、2026年に100周年。佐藤造船所はその節目を「通過点」と言う。穏やかな日も荒れる日も、すべて海の表情だと受け入れながら、ただ前へ進む。
旅を続けていると、場所よりも人を目的地にすることが増えてくる。石巻・渡波の佐藤造船所は、そういう場所のひとつになった。
次に来る時は、イシガニの捕り方を覚えて帰りたいと思う。


佐藤造船所 / bo-to-da-baSe
宮城県石巻市渡波字祝田の壱16-2
https://sato-shipyard.jp/


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