
文・写真 栁澤 (Yuki Amphibious Outdoor)
沖縄には二つの顔がある。 観光客が目にする、あの青く輝く海。そして誰も語らない、海底の現実だ。世界自然遺産にも登録されたやんばるの海域で今、取り返しのつかない変化が静かに進んでいる。現地を訪ねて初めて、その深刻さを知った。
海の森が消えていく
まず「藻場」について触れておきたい。 ホンダワラなどの海藻やアマモなどの海草が群生する藻場は、魚介類の産卵や幼魚の育成の場となるほか、栄養塩を吸収して水質を浄化し、CO2を吸収するブルーカーボンとしても近年注目されている。陸上の森林と同等かそれ以上の生態系への影響を持つとも言われており、「海のゆりかご」と呼ばれることもある。藻場が失われるとは、そこに依存してきたあらゆる命の連鎖が断ち切られることを意味する。


(西伊豆の藻場)
沖縄の赤土流出問題といえば、サンゴへの影響が広く知られている。赤土の粒子が海中に漂うことで日光が遮られ、サンゴが白化・死滅する。しかし被害はサンゴだけではない。沖縄県の資料によれば、赤土の流入は魚介類の産卵場所の喪失、モズクをはじめとする養殖漁業への打撃、藻場の消失、定置網への付着による漁業被害、さらには水道水源の水質悪化にまで及ぶとされている。サンゴほど目立たないぶん、見過ごされやすいのがこの「藻場への被害」だ。
東村の漁港で
小甲さんと初めて会ったのは、とあるシンポジウムだった。やんばるの藻場保全活動について話し終えた後、「沖縄に来る時には遊びに来てよ」と声をかけてくれた。その言葉を頼りに、数ヵ月後に東村の漁港を訪ねた。
軽トラックで現れた小甲さんは、もとは一本釣り漁師だ。係留された船の船体には子どもの絵が描かれていた。後から聞けば、次世代への思いからだという。釣りを愛し、海を愛し、この綺麗な海を蘇らせることを願っている人だと、話すうちに分かってきた。
小甲さんに案内されながら漁港に着くと、同組合の理事で養殖部会部長を務める桐原さんが合流した。長野県松本市出身で、もともとは山岳部だったという。南アルプスも北アルプスも歩き回った人が、沖縄に移住して25年、今は毎日海に潜っている。伊平屋島に渡り、モズク養殖の修行も積んだ。
「昔はこの辺も全部、藻場だったと聞いています」と小甲さんは話してくれた。ホンダワラという茶色い海藻と、アマモという緑のイネに似た海草がびっしりと群生し、無数の生きものを育んでいた。それが20年ほど前から姿を消し始め、今はほとんどない。
海の変わりようを、桐原さんはこう表現した。「全部泥で、魚なんてほとんどいない。潜ってみると本当に分かります」。かつてこの海で長く漁をしてきた師匠に聞いたところ、「今の海は昔の100分の1だ」という答えが返ってきたという。10年前や20年前の話ではなく、1960〜70年代頃まで遡ると、それほど豊かだったということだ。


Photo©Go Kokabu

(伊平屋島モズク養殖網)
港の作業場に並ぶ水槽
話を聞きながら案内されたのが、港のそばの作業場だった。中には水槽がいくつも並んでいる。緑色のアマモがゆらゆらと揺れ、茶色いホンダワラが海藻着生プレートや貝殻の基板に張りついている。シャコガイやナマコが底に住み、チョウチョウウオが泳ぎ、ミーバイ(ハタ類)が藻の陰でじっとしている。赤土を通さないフィルター越しの水の中で、かつての海の生きものたちが静かに育っていた。


桐原さんはこの水槽でホンダワラやアマモの苗を育て、海へ移植する「やんばる藻場再生プロジェクト」を進めている。美ら海水族館の職員とも連携しながら試行錯誤を重ね、陸上での育成には成功した。しかし移植した苗が海底に定着するかというと、そこに大きな壁がある。


「育てても植えた瞬間から食べられてしまう。環境が戻らないと、植えても育たないんですよ」と桐原さんは言う。かつては藻場が豊かにあったから、多少食べられても補える量があった。今は少しでも芽が出れば魚が競って食べ尽くす。囲いを作れば波浪で飛ばされ、県がかつて試みた時も囲いが全滅して取り組みが途絶えた。
海だけ見ていても、解決しない。山から赤土が流れ込む限り、海底の環境は回復しない。陸と海はつながった一つの環境だ――その認識が、二人を次の動きへと向かせた。
赤土が流れる。海が死ぬ。
東村はパイナップル日本一の村として知られる。酸性の赤土は「国頭マージ」とも呼ばれ、パイナップル栽培に最適だ。一方で水はけは悪く、雨が降るたびに海へと流出する。海に流れ込んだ酸性の土は、海に局所的な酸性化を招き、海藻の光合成効率も低下させる。戦後の政策でサトウキビ、そしてパイナップル畑へと転換され、裸地の農地が雨のたびに土を流し続けるようになった。東村のパイナップルの多くは缶詰用の量産品で単価はそう高くない。農家が収入を増やすには面積を広げるしかなく、畑はどんどん拡大していった。
ここ国頭村周辺では半数以上の漁業者が半農半漁の生活を送っており、農業からの収入が主体という人が多い。漁師であり農家でもある二重の立場が、問題をより複雑にしている。
全国的には沖縄の赤土問題は改善傾向とされている。漁業やリゾートホテルが盛んな地域では、海が濁れば直接的な経済損失になるため対策が進みやすい。かつて恩納村の漁協組合長が、泥で汚れたモズクの網を県庁に投げつけて条例改正を迫ったという逸話はその象徴だ。しかし東村は違う。観光業は乏しく、漁業の規模も小さく、海の被害を声高に訴える産業が育っていない。赤土が流れることへの慣れと諦めが積み重なり、「しょうがない」という空気が漂ってきた。
その深刻さを示す指標がある。SPSS(Suspended Particles in Sea Sediment=海域底質中の懸濁物質含有量)だ。海底への赤土堆積量を1から8のランクで示すもので、ランク6以上は人為的な流出による汚染と明確に判定される。東村の多くの海域はその最悪値である8に達しており、他地域の10倍以上の堆積量が記録されている。1mの定規を泥に差し込んでも底に届かない場所もある。視界の閉ざされた海が広がり、県の潜水調査が危険と判断されて中止になったこともあるという。
桐原さんはモズクの養殖を長年続けてきた。5年前まではきちんと水揚げできていたが、近年の集中豪雨が激しさを増すたびに海が真っ赤に染まり、育ちかけたモズクに赤土の粒子が付着して光合成を妨げる。5年前から水揚げがゼロになった。「村長に要望書を出し続けた。でも村は動かなかった」と桐原さんは言う。

二人だけで始めた海の再生
この活動を東村で担っているのは、小甲さんと桐原さんの二人だけだ。ボランティア状態から始め、漁協の中でも「異端」と思われながら動き続けてきた。現在も仲間を求めている。
「この問題は経済の話も絡んでくるんですよ」と小甲さんは言う。「人が利益を求めれば求めるほど、その分の赤字を自然が背負っている。空気も水も値段がないじゃないですか。なのに一番大事なものなんだけど、みんなお金があることを大事にしてる文明なんですよ今は」
水も空気もタダだから、価値がないように扱われる。しかし海が死ねば、漁業も観光も、子どもたちの未来もない。その事実を、毎日海と接する二人は誰よりも体で知っている。
桐原さんには、この海を守りながら人を引き込む構想がある。海底貯蔵庫だ。泡盛やワインを海中に沈め、半年後にダイバーが引き上げる体験型の取り組みだ。潜ってもらい、実際に海を知ってもらい、この場所を好きになってもらう。その収益の一部を赤土流出対策に充てる仕組みができれば、という発想だ。遊びに来た人が海底でこの場所を体で知り、やがてその海を守りたいと思う―――そういう人を一人ずつ増やしていくことが、再生への道筋だと桐原さんは考えている。
そのための魚礁はすでに海底に設置されている。桐原さんが大切に育て、見守ってきた場所だ。「魚たちは僕のことを親だと思っているから、迎えに来てくれるんですよ」と、桐原さんは目を細める。アンカーをたどり、コンパスで方角を確かめながら近づいていくと、魚たちが寄り添うように周りを泳ぎ、まるで海底へと案内してくれるような光景が広がるのだという。
ただ今は、赤土の堆積があまりにも深く、コンパスがなければ自分の位置すら分からないほど視界が閉ざされている。海底貯蔵庫らしい景観には程遠い。それでも、海が戻ってきた時のために、器具はすでにそこにある。
農業対漁業の対立ではない、というのが二人の立場だ。農家も赤土を流したくて流しているわけではない。産業構造の問題であり、仕組みの問題だ。農家を敵にしても何も変わらない――そう考えていた。
「海だけでは解決できない。山から流れてくるんだから」と小甲さんは言う。
活動は本格化した。海人が畑へ上がって農家と対話し、赤土流出対策を一緒に考える。シンポジウムを重ね、農家と漁師が同じテーブルにつき一緒に考える機会を作り続けた。東村が運営するチャレンジ農場では、熊本県立大学の島谷幸宏特別教授のチームと協力しながら「赤土を流さないパイン農業」の実践モデルを作ろうとしている。
2026年2月には島谷先生のチームとやんばる3村(大宜味村・国頭村・東村)が連携協定を締結した。JSTの予算で専門家チームがやんばるに入れる体制が整い、村の副村長も前向きに動き始めている。

Photo©Go Kokabu
こうした大きなうねりと共に、足元からの草の根の動きも始まった。市民団体「イノーシンカ」の立ち上げだ。
沖縄の言葉で「サンゴ礁の内側の海(イノー)」で寄り添い生きる「仲間(シンカ)」を意味するこのチームは、山・川・海をひとつの流域として捉える「流域治水」のアプローチで環境再生を目指している。
多様な個性を尊重して毎月の勉強会でアイディアを出し「お互いから学び合う」こと、行政や企業、地域の人々と「足元からつながる」ことで信頼のコミュニティーを築くこと。そして何より、美しい自然を次世代へ引き継ぐために日々の暮らしの中で無理なく持続できる環境再生の手触りを大切にしている。
現在は村民が赤土の流出箇所をGoogle Mapに投稿して問題を「見える化」する仕組みなどを進めている。一人ひとりが当事者となり、対話を通じて足元から豊かな循環を取り戻す試みが、いまやんばるの地で静かに、しかし確実に広がっている。


Photo©Go Kokabu
船の上から見た平良湾
取材の最後に、小甲さんが船を出してくれた。国頭村の平良湾へと向かう。急いでそのままの服装で乗り込んだ。

湾に入ると、小甲さんが沿岸の山肌を指差した。赤茶けた崩壊跡が見えた。「川からの赤土が流れ込んでくる。あそこの崖も土砂崩れの跡です」。雨のたびに山が崩れ、そのまま海へ流れ込む。上流から下流、そして海まで、赤土はとどまるところを知らない。


マスクを付けスノーケルを咥えて海に入った。透き通った光の中に岩礁が見え、美しい海底が広がっていた。この日は穏やかで、5年前から漁獲ゼロだとは信じがたいほどだった。梅雨の集中豪雨が続いた後にはここが真っ赤に染まるとは、その場では想像がつかなかった。


晴れれば輝くこの海が、大雨のたびに赤土で覆い尽くされ、海底の泥は年々積み上がっていく。後日、小甲さんから梅雨時期の写真が届いた。同じ場所とは思えない光景だった。その写真をここに掲載する。








Photo©Go Kokabu
山から礁へのメッセージ
「流域とリーフの先っぽまでが、昔はひとつの生活区域だったそうです」と小甲さんは教えてくれた。漁港のそばの博物館には、岩礁や礁池(イノー)に昔の人が付けた地名が記録されている。ジュゴンが来ていた場所には、沖縄の古い言葉でジュゴンを意味する「ザン」を冠した名がある。山の水源から、川、里、浜、礁池、そしてリーフまで――全部が人の暮らしとひとつながりだった文化が、この地にはあった。
この土地の人が長い時間をかけて体感してきた真実と重なる。本来であれば、山の養分や豊かな恵みが川を伝って海へと流れ、命を育んでいたはずだった。しかし、同時に今の川は、山で降った雨とともに赤土を運び、海を死なせる原因にもなっている。稜線と珊瑚礁はひとつながりの生命系の中にある。それは現代人が「発見」した概念ではなく、この海で暮らしてきた人々がずっと知っていたことだ。
今ここの海で起きていることは、マイナスでしかない。このままでは子どもたちに残せるものが何もない。せめてゼロに戻すこと、できればほんの少しのプラスを次の世代へ積み上げること――二人が動き続けるのは、そのためだ。
登山者もハイカーも、スキンダイバーもキャンパーも、フィールドが違っても同じ地球に生きている。山を歩く人が海の話を知り、海に潜る人が山の問題を知る。遊ぶことと守ることは、対立しない。そのつながりの先にこそ、この海を取り戻す力が生まれると、私は思っている。この海が再生する日を、私も手の届く場所から支えていきたい。



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